Ⅰ15期(小沢研7期) 沖 洋一

 先日、コロナ後初めて、学内で友電会社員が開催されたので、大学に行きました。
私が、大学3年の後期(1977年9月)から卒業(1979年3月)まで8人の仲間と寝食を共にして勉学に励んだ、私にとって最も思い出があるM号館がお別れ会の無いまま完全に取り壊されて悲しい思いをしたので、当時の思い出を振り返えらせていただきます。

 M号館は1976年9月に、9階建てで当時の寝屋川ではトップクラスの高層ビルで、私がお世話になったころは、土足厳禁でスリッパに履き替えていました。特に思い出が染みわたっている場所は、小沢研究室があったM201号室でした。当時は各大学とも定員の2倍以上の学生がいるのが当たり前の状況でしたが、小沢研究室では、4年生全員に事務机が確保され、全体的に乏しい設備のなか、恵まれた環境で勉学に励むことができました。勉学以外の環境についても、仮眠用の布団や調理環境(プロパンガス、コンロ、鍋、インスタントラーメン等)用意され、研究の過渡期には寝食を共にしたと言えます。当時のエピソードとしては、衛生管理のため布団をベランダに干したら、大学より美観を損ねるといったクレームがあったそうです。
 当時の規定で卒業研究は4年生の最初に希望申請をして割り振られる方式でしたが、小沢研室では3年生の後期から参加が暗黙の条件でした。3年生の役割は、線形代数など必要な基礎知識の学習(仲間での学習会を中心)や4年生の手伝いをしながらOJTの形での学習でした。少なくとも3年生の後半には4年生で行う卒業研究の具体的なテーマは決まりました。
 小沢研究室の研究内容は、何回かマスコミ(主としてサンケイ新聞の夕刊)に取り上げられたことがあり、その最初にとりあげられたのはコンピュータを使用した前方後円墳の形状での分類でした。前方後円墳の分類はアナログデータの地形図をデジタル化する必要があり、私も3年生の時に手伝ったことがあります。今なら、地形図をスキャナで取り込み簡単にできるかと思いますが、当時は、地形図を写真(接写レンズを使用)にとりスライド化して、特別に作成したスクリーン(摺りガラスの衝立に碁盤の目を引いたもの)に投影して人間が読みとり人海戦術でおこなっておりました。私が卒業後、ネット上にいくつかの前方後円墳のデータベースが公開されていましたが、公的機関より先に公開したのは小沢研室です。
 4年生になって各自の卒業研究の研究テーマに取り組みますが、小沢研究室の7期生は、前期の間指導教員の小沢先生がイギリス出張のため不在という他の期とは違う体験をさせていただきました。指導教員の事務的な代理は隣のM202号室の永田先生で何度か2研究室合同での懇親会もありました。各自の研究はテーマごとに小沢先生から紹介があった先生(他学科を含む)に相談し進めましたが、一番思い出に残っていることは、仲間で協力しあって問題を解決できたことです。私のテーマは音波を使って地中埋蔵物の探索(前方後円墳の石室などの場所を掘らずに推定する目的)でしたので、当時の電子工学科の松田稔先生にもお世話になりました。この研究内容は、4年生の秋にサンケイ新聞の夕刊に2人の先生の顔写真入りで掲載されました。

 勉学以外でも、いろいろな思い出がありますが、その1つが週1回の昼食会です。当番を決めて、研究室内でご飯を炊き、総菜を調理し、全員で昼食をいただくもので、私が卒業後も何年かは続いていました。
 各自の研究以外にも社会貢献といってもよいような3つの業務をこなしていました。
1つは、以前、このホームページに投稿した「遺跡散策の会」の主催(年2回)です。これについての詳細は過去の投稿を参照願います。
2つ目は研究室の同窓会(当時はからくさ会という名称)の運営です。会費の徴収(年間1000円、永久会員1万円)、機関紙の発行(不定期)、名簿の管理、総会の開催(3月)を手分けして行いました。私は、夏に発行した機関紙に当時のコンピュータ事情(阪大のACOSリモートで使用していたがOSなどシステムの不良が多かったこと)を投稿したが、これが縁で当時、大手メーカにて派遣でOSを開発していた先輩より誘いがあり就職につながりました。総会は毎年3月の卒論の締め切りから卒業式の間に京橋付近でおこなっていました。卒業研究が過渡期の1月ごろから準備をして、各自が協力し何とか勉学と両立させおこなっていました。私が卒業5年後ぐらいに研究室の同窓会についての見直しがあり、学生の関与が軽減され、総会も不定期開催となりました。
もう一つは8月の有名な祭りである徳島県人会に協力し、阿波踊りに全員で参加することです。これを社会貢献と言うかどうかはわかりますが「大阪電気通信大学」の名称が入った浴衣を着て、大勢の前で演技をするので、地方での名称の浸透につながります。当時の参加者は徳島県人会の学生及びOB、小沢研室の学生及び一部のOBや徳島県人会が学内で公募した方で多いときは50人以上の連となったこともあったようです。このイベント参加に大学や友電会がどうだったかということはあえて言いません。ゲスト用に使いまわしている浴衣は大学内のある場所に保管していましたが、決して法人本部や大学事務局ではなく、小沢研究室だったということから推測できると思います。残念ながら徳島県出身の学生の減少により現在は衰退しておりますが、友電会の支部として連を復活させることは可能だと思います。
私にとっては、本業の勉学以外に色々な業務をこなすことができたことが良き思い出になっております。先日、各地に散らばっている仲間8人全員と再会できたことは、1年半の間の仲間と築いた多くのM号館(特にM201号室)での思い出がベースになっております。