支部活動
令和5年12月9日の東京支部総会の報告
令和5年12月9日(土)に『2022年度東京支部総会』を開催いたしました。
25名の方々にご参加いただき、ありがとうございました。
特に、友電会本部の会長廣瀬様には新潟県から、前会長の福田様には長崎県から、 そして辻先輩には三重県からと、遠方からご参加いただき深く感謝申し上げます。
母校の大石理事長様は多忙のため、残念ながらご出席が叶いませんでしたが、 塩田学長との連名による祝辞を送って頂きました。 ありがとうございました。
今回の基調講演では、中野正三様(E05)から「東証1部への道のり」と題してご講演頂きました。 とても素晴らしい内容で本当に勉強になりました。
この講演内容は、東京支部ホームページに掲載していますので、是非ご覧ください。
「東証1部への道のり」へのリンク
母校の近況について、大石理事長からプロモーションビデオを送って頂きました。 この新しくなった母校のビデオを見つつ、学校理事の観野様より学園の「最新情報」「母校の変遷」、 そして「喫緊の課題」についてご説明いただきました。
私からは、昨年度から開設した東京支部ホームページの現状をご報告いたしました。 諸先輩より多数の投稿を頂いておりますので、是非一度アクセスして頂きたいと思います。 皆様の素晴らしい仕事と人生の経験が書かれており、特に若いOBの方に共有していきたいです。 投稿回数に制限はございませんので、皆様も昔の栄光を思い出しながらご投稿を頂けたら幸いです。
今回、私から廣瀬会長へ投稿をお願いしましたところ快諾頂きました。 加えて、2週間後に次回投稿者のご指名もお願いいたしました。ご協力に感謝申し上げます。
参加者全員による記念写真撮影後、懇親会を2時間程度開催しました。 ご参加の皆様に近況報告を頂き、とても楽しく有意義なひと時になりました。
最後は大学歌を全員で斉唱し閉会いたしました。 皆様、本当にありがとうございました。
来年も、同じ都市センターホテルにて、2024年12月7日(土)に開催を予定しています。 皆様のご参加を宜しくお願い致します。
これからも引き続き、東京支部へのご鞭撻とご指導を宜しくお願い致します。
東京支部 支部長 蕭 烱森
(左):ご挨拶中の廣瀬友電会会長 (右):基調講演中の中野正三様
図書室
世界最高水準をめざして
―― データ通信サービス用コンピュータDIPSの共同研究 ――
DIPS:Dendenkousha Information Processing System
工学部通信工学科5期卒
東京支部 岩本吉男
私は、昭和20年10月和歌山県、現・有田市のミカン山で生まれ、その後和歌山市で育ち、家が母子家庭であったことで、高校卒業したら働こうと思い県立和歌山工業高校に進んだ。
その後進学したいと思うようになり、昭和40年4月大阪電気通信大学に進んだ。
4年就職のとき日本電信電話公社(現NTT)の本社採用を一般公募していたので受験し合格した。
当時技術系は人気で約70倍、国公立大卒がほとんどでした。
昭和44年3月に母校を卒業し4月に入社し3ヶ月訓練を受け配属されたのが東京・武蔵野市にある電気通信研究所(通研)、データ通信研究部(40名)だった。
研究所は3,000人規模で、日本の電気通信に関する研究は全てここで行っていた。
さて、電信電話公社がなぜコンピュータを開発したのか?
大きく2つ背景が有りました。
① 社内事情
昭和44年頃は高度経済成長の後期で電話事業は伸び盛りで、電話局に電話設置を申請してもかなり待たされる状況だった。
昭和39年アメリカのIBM社がS360と言う汎用コンピュータを発表した。大変優れた機能・性能で企業等の業務は全てシステム化され「やがて情報化社会になる」が当時の流行語でした。今の「やがてAIの時代になる」と同じです。
この社会環境のとき社内で「電電公社はこのままで良いのか」の議論が出ました。日本の家庭数有限、やがて電話は家庭に行き渡る、収益は伸びない、議論は多々あったが結論は、情報化社会が目前にある、積極的にこれを取り込もう、情報通信サービスをやろう、その為のコンピュータを開発しよう、と言うことでした。
② 国内事情
当時日本のコンピュータの技術レベルはアメリカに大きく遅れていた。自社ブランドで大型コンピュータを製造、販売していたが、アメリカに学ぶと言う段階でした。
日本政府もこの状況に大きい危機感を抱き、当時の通産省が民間企業に助成金を出し「超高性能大型計算機」プロジェクトを立ち上げ研究をしていた。当時国内メーカは自社コンピュータの技術レベルを早く上げたいと言う切実な思いを持っていた、IBMに飲み込まれないために。
こうして昭和44年4月に日本電信電話、日本電気(N)、日立(H)、富士通(F)の4社によるDIPSの共同研究が始まった。私はこれに従事しました。
企業文化の異なる4社で1つのコンピュータを開発する。何から始めるか、まず完全な意識合わせが必須、標準化である。
設計書を書くときの用語の定義、順序、書き方、試験方法、品質評価方法、等々。そして最も重要な機械語の標準化、これを決めれば例えばN社が開発したソフトはH社が開発したハードの上でも動く。開発のみならず開発後のメンテ、維持、管理においても効率上極めて重要です。
以下に開発経過を略記します。
・1969年(昭和44年) 日本電信電話、日本電気(N)、日立(H)、富士通(F)4社共同研究開始
・1972年(昭和47年) 横須賀電気通信研究所発足、開発拠点移転、体制拡充。
・1973年(昭和48年) 最初の公衆サービス(科学技術計算システムサービス)開始。DIPSー1F。
・1978年(昭和53年) 最初のナショナルプロジェクトサービス(郵政省・貯金システムサービス)開始。
・1982年(昭和57年) DIPS―11―11モデル45試作機完成。世界最高水準達成。
なぜ達成できたか?:①始めから明確な性能目標を持つ。
②技術先導性の方針。
③ライバルはIBM、各社案出し良い方採用。
④LSIの進化を積極評価採用。
・1992年(平成 4年) DIPSの4社共同研究終了。研究開発終了、維持管理ベースに移る。
・2003年(平成15年) DIPSによるサービス運用終了。マルチベンダ方式でサービスは継続。
私の場合、昭和53年の前数年は夜昼なし休日なし通研の仮眠ベッドで寝る、のような日が多かった。
(映像)「エピソード#5 日の丸コンピュータ開発者は語る」2022年、DIPS開発を3人で語った。
NTT語り部シリーズ「温故知新」 | NTT技術史料館 (groupis-ex.ntt)
DIPSの導入
① 導入システム
・ナショナルプロジェクト:郵政省貯金、運輸省車検、労働省、社会保険庁、国税庁、気象庁。
・公衆システム:科学技術計算(DEMOS)、販売在庫管理(DRESS)。
・金融システム:北海道銀行、千葉銀行、愛知銀行、広島相互銀行、相銀九州、全銀、他。
・社内システム:料金総合、線路整備管理、料金明細、電話帳、番号案内、経理、他
合計 150システム(H3年度末)
② 出荷台数 大中型機:約500台。小型機:約2400台
DIPS計画はメーカさんを含め延べ5万人の巨大プロジェクトだった。
おわりに:
① ソフトウェア(コンピュータプログラム)の知的財産保護(特許法、著作権法)に興味があり、当時社内的に未整備の状況にあったので、以前からの希望で1981年(昭和56年)に知的財産を扱う組織に異動した。DIPS計画は、立ち上げ期、拡充期、が終わり次の成熟期に入っていた。
② 1996年(平成8年)3月NTTを退職し、4月にNTTの研究所が設立したグループ会社に入社した。
ここでは主にDIPS開発の経験が評価され、研究所のサイバーセキュリティ研究を国内外の特許情報を収集し分析評価し提供することで密接支援した。
③ 2015年(平成27年)3月グループ会社を退職し、現在はNTT技術史料館(企業博物館)でOB運営サポータとしてボランティアをしてます。
これについては次回ご紹介します。
・・・続く