F16 E.SAKAI

 研修が終わり、札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡に1人ずつ配置され、東京で前年から担当されていた2人を加えて合計8人での保守体制が始まりました。
私の場合、大阪配属でしたから、近畿2府4県の機材を一人で担当することになりました。
これはかなりのプレッシャーです。
何せTV局の取材・編集・送出に使う機材ですから、故障すれば放送事故にもなるし、貴重な映像を撮り逃したりする。
修理は速やかに完了させる事が望まれるし、修理後に再発したりしたら思いっきり怒られますからね。
加えて、機材が豊富に無かった時代でしたから予備機も無く、難しい故障が来たら必死で取り組んでいました。
大阪の社員には他に頼れる人は居ないので、他の地域の担当者といつも電話で話していたのを覚えています。時には夜中まで・・・。
実は、この経験が地域の1社員で終わらず全国で活動するきっかけとなり、後のキャリアに大きく影響したと思っています。

 今でも印象に残る修理依頼が有りました。
甲子園球場で開催されていた全国高校野球選手権大会。
ブルペン近くで取材していたポータブルVTRに打球が当たり壊れたというのです。
そのVTRを見てビックリ! VTRのカバーに硬球の糸目がくっきりとついていました。
もちろん、その中の部分は凹んでいたり、潰れていたり。
結局、修理不可で全損にしたかな。

 ところで、近畿管内のVTR保守を一人で担当していた時も、入社時の担当業務(共聴施設建設、送信設備保守)を並行して担っていました。
VTR機材の台数がまだまだ少なかったので出来たのでしょうが、急な故障対応もあり結構大変だったと記憶しています。
 そんな中、VTRだけではなくI社のカメラも対象にするとの話がありました。
当時、取材カメラはS社製とI社製が採用されており、関西はI社製だったのです。
私には担当できる余裕は無かったのと、一人体制では不安という事で、他のA社員(先輩)が選ばれて研修のためI社に行かれました。
帰ってからは、私がVTR、A社員がカメラという2人体制がしばらく続きました。

 1~2年経ったぐらいでしょうか、TV中継局関係の業務が忙しくなり、A社員はそちらの業務に携わることが多くなり、ついには、カメラ担当から外れることとなりました。
ということは・・・私はVTRとカメラの両方を担当する羽目になったのです。
しかも、カメラについては研修を受けていないのです。
A社員から教えてもらい何とか対応しました。 といいますか、対応するしかないですよね。
もう必死です。 ただし、カメラについては身近に相談相手が居ましたので助かりました。
 その後もひとり体制が続いていましたが、機器の台数が増えてきたことや、他の工事も担当していたので、毎日が非常に多忙で、もう身体がもたない状況となり、精神的にも追い込まれて、ある日、上司に向けて大爆発しました。
その時から、ENG機器の整備のみに集中できる体制にしていただきました。
もし、改善されていなかったら・・・身体か精神を壊していたか、会社を辞めていましたね。

 機器の整備だけではなく、映像・音声系の設備工事も徐々に増えました。
そして、昭和61年、全社的な新たな組織が誕生しました。
ENG機器の整備業務も映像・音声設備工事もどんどん拡大し、業務体制も5名まで増え、売り上げも鰻登りで、当初の目的であった事業の3本目の柱に近づいていきました。
これは、当初から携わってきた私にとって大変嬉しかったですね。 

 順調に業務を進めている中、また一つの転機が訪れました。
就職後2回目のサプライズです。

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