F16 E.SAKAI

 東京本社での研修が終わり、大阪支社 技術課へ配属となったのは、昭和55年(1980年)4月4日。
その後は、先輩(直属上司)に同行して現場を経験する日々が続きました。
主な担当は、郊外のTV共同受信設備(当時は辺地共聴と呼ばれてました)の設計・施工・保守でした。

 2ヶ月ぐらい経過したある日、ダム湖に沈む村の移転地域に設置する共聴施設を受注したのですが、その設計・施工を、入社間もない私が担当するようにとの指示がありました。
机上の設計には、事前研修の効果もあり少々自身が有りましたが、実際の地域にマッチしたシステムを組むことには全く自信が有りませんでした。
どうせ先輩が助けてくれるだろうと思っていましたが、甘かったですね。
必要な項目の大まかな説明だけで細かい指導はなく、自分で調べるしかないので結構苦労しました。
それでも、現地調査~設計図面作成~見積作成を何とか仕上げ先輩に提出しました。

 提出後には、いろいろ修正してくれるだろうと思っていたのですが、何の指摘も無くそのまま採用。
そのあとは、材料発注~協力会社手配~現地工事と、あっというまに進みました。
さすがに現地工事は出来ませんでしたが、協力会社の方々にしっかりと助けて(教えて)いただき、この仕事を行っていく上での基礎が養われたと思います。
しかし、怒られましたねぇ。 特に協力会社の親方から・・・
車を運転して現場に出向くのですが、取得後2回ほどしか運転してなかったので、脱輪とか接触とかして。またまた怒られてました。
言い訳ですが、凄い道を走っていたのです。

 十数年後になってから、私の設計したシステムの図面を改めて見た事が有ります。
間違いではないが、理論しか頭に入っていない者の典型的な設計でした。
設計内容と現地とが上手くマッチングしてないのです。
かなり恥ずかしく思いましたね。
上司には分かっていたが、敢えて指摘しなかったのでしょう。
そこは理論というかセンスの問題なので、経験がものをいう部分でしたからね。 
 この施設は、後に全面リニューアルされ、設計図面から私の名前が消えました。
ホッとしたという安堵と共に、少々寂しい気持ちもあります。

 上記の業務の他、TV放送電波の中継局の保守に先輩と一緒に行くこともありました。
概ね山の上に設置されていて、道も整備されていないので、毎回、重い機材を背負子に乗せて担ぎ、山道を登っていくという体力勝負でした。
道が無いので、山頂までまっすぐ、木や草を描き分けながら登ったこともあります。
 ある日、帰宅してお風呂に入り、出て来たときに母親が驚いていました。
荷物を背負った後が赤く腫れていたのです。
暫くして慣れましたが、この仕事は結構きつかったですね。

 寒い時期になると、設備に不具合が出やすくなり、何度となく出向いたものです。
保温のために、機器が入っているBOXを段ボールで巻いたこともあります。
この作業を先輩から言われた時、私は「こんな対処で良いのか」と呆れていました。
でも、正常に働くようになるのですねぇ。 段ボール 最強です。

 毎日、仕事に追われる日が続いていましたが、6か月ぐらい経過したとき、話があると上司に呼ばれました。
少々緊張しながら、会議室に二人で入りました。
「会社で新しいことを始めるのだが、先輩たちは現場を離れられない。君はまだ主担当の業務が少ないので、ちょっと研修に行ってきてくれないか。」
この研修が、私の仕事を大きく変えるきっかけとなりました。

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